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Klipsch の歩み

80年以上にわたり、Klipschは創業者ポール W. クリプシュをはじめ、業界でも屈指の才能と技術、情熱を持つ人々の手によって、製品の設計・開発を自社で行ってきました。

パイオニアであり、型破りな存在でもあったポール W. クリプシュが、現在もなおHi-Fiの世界に変化をもたらし続ける企業をどのように築いたのか。その歩みをご紹介します。

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1904

すべてはPWKから始まった

3月9日、インディアナ州エルクハートでオスカー・コールマン・クリプシュとミナ・パール・エディの一人息子として、オーディオ機器の伝説的人物ポール W. クリプシュ(PWK)が誕生。

1930年代

 アイデアの種

ニューメキシコ州立大学を卒業後、PWKはゼネラル・エレクトリックでラジオの設計に携わりました。その後、チリのトコピジャにあるアングロ・チリ・コンソリデーテッド・ナイトレート社で、若手電気技師として働くことになります。

現地で彼は、自身のホーン型ラジオスピーカーと友人のコーン型スピーカーを比較し、ホーン方式が持つ高能率性に気づきました。

その後、大学院進学のため米国に戻ったPWKは、1933年にスタンフォード大学の同僚が語った「すべてのスピーカーは、部屋のコーナーに置くとより良い音になる」という言葉をきっかけに、スピーカー設計についてさらに深く考えるようになります。

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1941

戦争とホープ

第二次世界大戦への米国の参戦を見越して、政府はアーカンソー州ホープに弾薬試験場を開設しました。予備役将校訓練課程で訓練を受けたポール W. クリプシュ少佐は、主任技師および副指揮官としてこの地に派遣されます。
5万エーカーを超える敷地で、彼は数千人の部隊を率い、300万発以上の弾薬試験と242棟の建設を指揮しました。その建物の中には、のちにKlipschの工場やKlipsch博物館となる施設も含まれていました。
週70〜90時間にも及ぶ勤務のかたわら、PWKは伝説的なスピーカー「Klipschorn®(クリプシュホーン)」の設計を完成させる時間を見つけます。彼の士官宿舎を訪れた人々は、その生々しい音の再現性に驚き、PWKに自身の製造事業を始めるよう勧めました。

1946

事業の始まり

ホーンスピーカーは能率が高く、歪みが少ないという考えに基づき、ポール W. クリプシュはKlipschornの初期プロトタイプを開発しました。彼はそのスピーカー設計で特許を取得し、Hi-Fi時代の幕開けを大きく後押ししました。
1946年、PWKは「クリプシュ&アソシエーツ(Klipsch & Associates)」の名で会社を設立。アーカンソー州ホープにあるトタン小屋で、高域用ホーンの製造を開始しました。
最初の20台のKlipschornスピーカーに使われた低域用キャビネットの製作には、地元の家具職人とボールドウィン・ピアノ社が協力しました。

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1948

最初のKlipsch工場と研究所

1948年、ポール W. クリプシュと最初の従業員はトタン小屋では手狭になり、アーカンソー州ホープのサウスウェスタン試験場にあった電話交換局の建物へ会社を移転しました。PWKは、戦時中に自ら建設に携わった数多くの建物のひとつを、米国政府から購入したのです。
建物の1階には音響研究所とオフィスが設けられ、地下にはスピーカーの製造設備が整えられました。地下室は天井高が10フィートあり、手回し式のエレベーターも備えていたため、スピーカーの製造に理想的な環境でした。
ここで最初に製造されたKlipschornのシリアルナンバーは「121」。PWKは、会社をより大きく見せるために、シリアルナンバーに100を加えていたのです。1948年から1952年までクリプシュ&アソシエーツ社の拠点となったこの建物は、現在、Klipsch博物館として使われています。

1956

Klipschテープ部門

1956年末、ポール W. クリプシュは、ある若者をスタッフ・ミュージシャンとして迎え入れました。ジョン・アーグルは兵役を終えようとしていた頃で、イーストマン音楽学校で学んだ知識を活かしたいと考えていました。彼はホープから30マイルほど離れたテキサーカナで育ち、少なくとも1953年頃からポールのもとでパートタイムとして働いていました。
1957年初頭に正式に加わったことで、Klipschテープ部門が誕生します。
この事業は、録音済みステレオ音源をKlipschの販売店やHi-Fi愛好家に販売するものでした。同時に、当時数多く行われていた展示会でKlipschornの実力を示すための、優れたデモ音源を提供する目的もありました。
Klipschとアーグルは全米各地を巡り、ジャズバンドのコンサート、オルガンリサイタル、合唱、その他多くのライブイベントを録音しました。中には、卓球、パレード、蒸気機関車といった効果音も含まれていました。
これは、オーディオ機器メーカーがオーディオ愛好家に向けてダイレクト・テープ・マスターを提供した、最初期の試みのひとつでした。一般向けに提供されたステレオ録音としても、非常に初期のものにあたります。
2年間で数百本もの高音質録音を残したものの、この事業は終了します。PWKは1959年に、これを「1万ドルの損失だった」と記しています。その後アーグルは、JBLにおけるオーディオエンジニアリングと製品開発の先駆者となり、グラミー賞やアカデミー賞も受賞しました。
2011年、Klipschテープのマスター録音の一部が再発見されました。驚くべきことに、それらはアーカンソー州の管理されていない環境で、50年以上の保管期間を経ても残っていました。選ばれたトラックはデジタル化され、その音質は大部分において非常に優れたものでした。
これらのテープは、録音技術とポピュラーカルチャーの初期の姿を伝える貴重な記録です。現在も調査が進められており、今後さらに公開できる音源が見つかることが期待されています。

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1957

少しばかりの異端(Heresy)は、
魂にとっては良いものだ

ポール W. クリプシュは、1957年にHeresyを発表しました。これは実質的に、世界初の商用センターチャンネルスピーカーでした。3チャンネル・ステレオ構成における中央定位のために設計されたものです。
なお、商用ステレオLPが初めて登場したのは1958年のことでした。
このスピーカーの名前は、ある関係者が「ポール・クリプシュがコーナー型ではないスピーカーを設計するなんて、異端だ」と言ったことに由来します。
それに対しPWKは、「それを名前にしよう」と答えました。
その1年後、Klipsch Heresyはベルギー・ブリュッセルで開催された万国博覧会でデモンストレーションされます。
Heresyは、現在ではIVへとアップデートされ、今もアーカンソー州ホープでKlipschによって製造されています。世界中の音楽ファンに愛され続け、オールタイム・ベストのリストにも数多く名を連ねるモデルです。
コンパクトなサイズ、力強い出力、設置の自由度を備えたHeresyは、リビングルームから教会、ナイトクラブまで、さまざまな空間で信頼される定番モデルとなっています。

1958

世界の舞台へ

1958年の万国博覧会は、ベルギーのブリュッセルで開催されました。当時27歳のオーディオ愛好家、ドン・デイヴィスと妻のキャロリンは、ヨーロッパを旅行していました。
その際、米国のオーディオ産業を代表する展示としては十分とはいえない機器のデモを目にした2人は、帰国後、米国国務省に働きかけ、その状況を改善するための許可を得ました。
彼らは友人のジョージ・ペトリー、ビル・ベルとともに、Scott、Marantz、Ampex、Altec、Fairchild、そしてKlipschなど、総重量1トンを超える最先端のオーディオ機器を旅客機に積み込み、ブリュッセルへ戻りました。
午後の時間帯には、アメリカ国立館を使用し、モノラルおよびステレオ音楽の再生、効果音のデモンストレーションを行うプログラムが組まれました。電子機器は講堂後方のテーブルに並べられ、来場者が見られるように展示されました。
ステージ上には、仮設コーナーに設置された2台のKlipschornが置かれ、新たに登場したKlipsch Heresy®がセンターチャンネルを担当しました。このプレミアムなシステムは来場者を魅了し、各回のデモンストレーションは満席となりました。
米国へ戻った後、ドン・デイヴィスはポール W. クリプシュに雇用され、ほどなくしてキャロリンとともにアーカンソー州ホープへ移り住みました。

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1959

西から東へ

1959年夏、冷戦のただ中にあったモスクワで、「アメリカ博覧会」が開催されました。この展示会は、米国とソ連の生活様式や技術を互いに紹介し、同時に世界中のテレビ視聴者にも届けるものでした。
会場には、米国を代表する革新者たちが関わっていました。R. バックミンスター・フラーはジオデシック・ドーム型の展示ホールを設計し、チャールズ&レイ・イームズは7面スクリーンによる同期型マルチメディア展示と、展示全体のブランディングを手がけました。また、リチャード・ニクソン副大統領とニキータ・フルシチョフがモデルキッチンで行った有名な討論も、この展示会での出来事です。
クリプシュ&アソシエーツ社のドン・デイヴィスは、米国商務省のオーディオ・コンサルタントとして参加し、Klipschの技術をデモンストレーションしました。
ジョージ・ネルソンが設計した「ジャングルジム」パビリオンでは、ハイ・フィデリティ製造業者協会(IHFM、Institute of High-Fidelity Manufacturers)がオーディオシステムを展示。その中には、KlipschornとHeresyによる3チャンネル構成のシステムも含まれており、「究極のシステム」と呼ばれました。
ジャズ録音は、好奇心旺盛な来場者によって、しばしば非常に大きな音量で再生されました。中には、音量を最大にするために構造物によじ登る来場者もいたといいます。

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1959

西から東へ

1959年夏、冷戦のただ中にあったモスクワで、「アメリカ博覧会」が開催されました。この展示会は、米国とソ連の生活様式や技術を互いに紹介し、同時に世界中のテレビ視聴者にも届けるものでした。
会場には、米国を代表する革新者たちが関わっていました。R. バックミンスター・フラーはジオデシック・ドーム型の展示ホールを設計し、チャールズ&レイ・イームズは7面スクリーンによる同期型マルチメディア展示と、展示全体のブランディングを手がけました。また、リチャード・ニクソン副大統領とニキータ・フルシチョフがモデルキッチンで行った有名な討論も、この展示会での出来事です。
クリプシュ&アソシエーツ社のドン・デイヴィスは、米国商務省のオーディオ・コンサルタントとして参加し、Klipschの技術をデモンストレーションしました。
ジョージ・ネルソンが設計した「ジャングルジム」パビリオンでは、ハイ・フィデリティ製造業者協会(IHFM、Institute of High-Fidelity Manufacturers)がオーディオシステムを展示。その中には、KlipschornとHeresyによる3チャンネル構成のシステムも含まれており、「究極のシステム」と呼ばれました。
ジャズ録音は、好奇心旺盛な来場者によって、しばしば非常に大きな音量で再生されました。中には、音量を最大にするために構造物によじ登る来場者もいたといいます。

1959

Cornwall(コーンウォール):自然な高能率

Klipsch Cornwallは、ポール W. クリプシュが1957年に、2台のKlipschornの間に置くセンターチャンネルとしてHeresyを開発した後に生まれました。
より広い帯域を再生できるセンタースピーカーの必要性に気づいた彼は、1959年にCornwallを設計しました。Heresyと並び、商用生産された最初期のセンターチャンネルスピーカーのひとつです。
Cornwallは、PWKが実証してきたホーンロード型のツイーター/ミッドレンジシステムと、バスレフ型ウーハーキャビネットを組み合わせた3ウェイ設計を採用していました。
ニューヨーク・オーディオフェアで初披露された際には、このスピーカーの名称を決めるコンテストが行われました。そして、コーナー(corner)にも壁際(wall)にも設置できることを表す名前として、「Cornwall」と名づけられました。
初期モデルにはElectro-VoiceやJensenのコンポーネントが使われていましたが、後にKlipschのカスタムドライバーや進化したホーン設計へと置き換えられていきます。時代を重ねる中で、周波数特性の改善、歪みのさらなる低減、構造の改良が行われました。
長く受け継がれる品質を備えたKlipsch Cornwall IVは、現在もアーカンソー州ホープで職人の手により製造され、世界中の音楽ファンに愛されています。

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1963

La Scala (ラ・スカラ):
ダイナミックなディーヴァ

ポール W. クリプシュは、舞台芸術の分野に向けてKlipsch La Scalaスピーカーを設計しました。その名は、イタリア・ミラノにある世界的に有名なオペラハウス、スカラ座(Teatro alla Scala)に由来します。
La Scalaは、アーカンソー州知事候補ウィンスロップ・ロックフェラーのためのPAスピーカーとして発表されました。その比類なき能率と性能により、Hi-Fiの歴史に名を刻む存在となります。
Klipsch La Scalaは当初、クラブや教会、イベントスペースなどの内装に合わせて設置・塗装できるよう、無塗装の木材で製造されていました。
やがて、移動を伴うライブサウンド用途に向けて、保護仕上げとハンドルを備えた業務用モデルも製造されます。

現在のKlipsch La Scala AL6は、その系譜にふさわしい美しいエンクロージャーに収められたプレミアムオーディオです。今もアーカンソー州ホープの、La Scalaが最初に製造されたのと同じ工場で、職人の手により作られています。

1965

BULLSHIT(くだらん!)

1960年代半ば、Klipschの社長ボブ・モアーズは、長年Klipschを担当していた広告代理店グッドロー・スタック社から、シカゴの広告会社へと代理店を変更しました。
その新しい代理店が初めてKlipschのオフィスを訪れたとき、ポール W. クリプシュはHi-Fi雑誌を空中に放り投げ、「くだらん!(Bullshit!)」と叫びました。
彼は、スピーカーメーカー各社が、自社の「革新技術」によって物理法則を打ち破ったかのような誤った主張をしていることに、心底うんざりしていたのです。
こうして「Bullshit」というスローガンが生まれただけでなく、「Ho Hum Another Major Breakthrough(またしても退屈な技術革新が誕生)」という広告キャンペーンも誕生しました。
PWKは、オーディオ専門店や展示会で小さな黄色いバッジを配り始めました。それは襟の下につけておき、必要なときに見せるためのものでした。
1975年には有名な“Bullshit” Tシャツが登場し、出荷ドック前での写真撮影のために、全従業員に1枚ずつ配られました。その後まもなく、アーカンソー大学の学生が、この大胆なTシャツを着ていたことで授業から退出させられる出来事が起こります。クリプシュ&アソシエーツ社は、その学生のために法的支援の費用を負担しました。
現在でも、Klipsch本社やKlipsch 博物館を訪れた人には、この“Bullshit”バッジが配られています。それは、Klipschの音響研究が真に科学的な基盤に立っていることを思い起こさせるものです。

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1969

更なる躍進

1960年代後半の社会文化の変化により、ステレオ音楽とHi-Fiへの関心は高まり、Klipschはその流れを牽引していきました。
オーディオシステムは、家庭、独身者の住まい、パーティー会場に欠かせない存在になっていきます。ポール W. クリプシュとKlipsch社長ボブ・モアーズは、PWKの飛行機で全米を巡り、米国各地に次々と登場していた新しいステレオショップを訪問し、“Bullshit”バッジを配りました。
ライフスタイル誌にはKlipsch製品のレビューや推奨記事が掲載され、英国ロックの世界的なブームやサイケデリック・ムーブメントにより、刺激的なリスニングのための膨大な録音音源が生み出されました。
この時代の流れの中で、Klipschのロゴは新しい書体と、当時を象徴する大胆な色使いへと変更されました。

1971

舞踏会の花形(Belle)

1970年末、Klipschのキャビネット工房では、特注品の一部において、Klipsch La Scalaの実用本位の外観をより洗練させる試みが何度か行われました。しかし、キャビネット設計の都合により、外観上の変更を加えることは容易ではありませんでした。
1971年、ポール W. クリプシュはBelle Klipschを発表します。これはLa Scalaと基本的に同等の音響性能を備えながら、外観をより美しく整えた、プロポーションの異なるスピーカーでした。
その名称は、彼の最初の妻、エヴァ・ベル(ハリング)・クリプシュにちなんでいます。2人は1928年に結婚し、彼女が1976年に亡くなるまで夫婦であり続けました。
Belle Klipschは、フルホーンロード型ドライバーとフォールデッドホーン・ウーハーを備えた、スタイリッシュな3ウェイ・フロアスタンディング・スピーカーでした。極めて高い能率と低歪みで知られ、現在もオーディオファイルの間で高く評価されています。
Belle Klipschは、1990年代半ばに生産終了となりました。

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1977

プロフェッショナル・サウンド

高能率なホーンロード設計と、その応用可能性を追求し続けたクリプシュ&アソシエーツ社は、1977年に大規模会場向けラウドスピーカーの製造を開始しました。
同社のプロフェッショナル・スピーカーラインには、ツアー/ライブサウンドおよび映画館向けに設計された、500ポンド(約227kg)のMCMシリーズが加わりました。
MCMシリーズは、信頼性と優れた音質を備えた米国製スピーカーによって、業務用音響やカスタム音響設備の分野に長く貢献していくというKlipschの姿勢を確かなものにしました。
現在、力強く正確なKlipschの業務用ラウドスピーカーは、世界中の一流のイマーシブシネマのスクリーンの後ろや、ライブ会場で活躍しています。

1978

シルバー&ゴールド

1970年代後半から1980年代初頭にかけて、ホーンロード型ラウドスピーカーと、その背後にいる個性的な天才に対する称賛と関心が相次ぎました。
ポール W. クリプシュは1978年、スピーカー設計と歪み測定への卓越した貢献により、音響工学協会(AES、Audio Engineering Society)の権威あるシルバーメダルを受賞しました。この功績は、5年後に彼が「オーディオの殿堂(Audio Hall of Fame))入りを果たすことにつながります。
Klipschのスピーカー技術はプロフェッショナル音響の分野へと広がり続け、多くのレコーディング・アーティストがスタジオでの正確な再生のためにKlipschを選びました。
中でも、ニューヨークのレコード・プラント・スタジオやナッシュビルのエナクトロン・モバイル・スタジオなどでは、数えきれないほどのゴールドディスクやプラチナディスクの制作にKlipschスピーカーが使用されました。

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1980

無響室

1970年代が終わりを迎える頃、創業者でありチーフエンジニアでもあったポール W. クリプシュは、研究、試験、科学的探究の能力をさらに高める方向へ会社を導いていきました。ドライバー設計、キャビネット構造、ネットワーク設計の領域へ、より深く踏み込んでいったのです。
PWKとエンジニアのジム・ハンターが設計した最先端の無響室が加わり、1980年、ホープに新しい研究施設が設計・建設されました。この無響室には、コーナー型スピーカーの試験用として、特許取得済みの3トンの回転ドアが備えられていました。
2001年には、インディアナポリスの「クリプシュ・エンジニアリング・アンド・テクノロジー・センター」に、2つ目の無響室が建設されました。試験用ラボと試作工房も併設され、ホープのオリジナル無響室を受け継ぐ施設となっています。

1985

Forte(フォルテ):
忠実な音を、さらに力強く

1985年に初めて登場したKlipsch Forteは、最先端の音響エンジニアリングと、米国の手仕事によるクラフツマンシップを組み合わせた、同社で最も成功した製品のひとつとなりました。
創業者ポール W. クリプシュとチーフエンジニアのゲイリー・ギラムが牽引したForteは、コンパクトなキャビネットから深みのある低音、正確な音像、高い効率を実現するために設計されました。パッシブラジエーター、ホーンロード型ドライバー、そして入念にチューニングされたクロスオーバーネットワークといった技術が用いられています。
手の届きやすい価格帯でハイエンド性能を実現したForteは高い評価を受け、大きな需要を生みました。その結果、アーカンソー州ホープでは昼夜を問わない生産体制が敷かれました。
1980年代後半には、ロイ・デルガドやジム・ハンターを含む新世代のKlipschエンジニアたちが、Tractrixホーン技術やその他の音響的ブレークスルーによって設計をさらに磨き上げ、高く評価されたForte IIへとつながっていきます。
音楽ファンの間で長年にわたり支持され続けた後、2017年にはForte IIIが登場しました。現代のシネマ由来の技術と、オリジナルモデルならではのダイナミックなサウンドを融合させたモデルです。

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1989

一族へ受け継がれて

85歳のポール W. クリプシュは、Klipsch & Associatesを、またいとこにあたるインディアナポリスの実業家フレッド S. クリプシュと、その妻ジュディに売却しました。

製造は引き続きアーカンソー州ホープで行われ、事業運営は、フレッドが既に事業を展開していたインディアナ州インディアナポリスへ移されました。PWKは創業者兼アドバイザーとしてホープに残り、自身最後のホーンロード型作品となるKlipsch Jubilee®の開発を続けました。

社名はKlipsch, LLC.へ変更され、新しいロゴも制定されました。ホームシアター市場が勢いを増す中、音響開発はさらに加速します。その後の10年間で、Klipsch, LLC.からKlipsch Synergy、Legend、Quintet、Reference、THX®の各製品ラインが登場しました。

1995

ホームシアターと建築用スピーカー

家庭で映画を楽しむための5.1サラウンドサウンド形式が普及するにつれ、パワードサブウーハーやセンタースピーカーが登場し、Klipschはホームシアターの分野で世界的に知られる存在となっていきました。

また、住宅設備市場にも対応し、住まい全体やマルチチャンネル用途に向けた、高効率な建築用スピーカーや全天候型スピーカーを発表しました。

現在も技術と音響の進化を重ね、Klipschはこの両カテゴリーにおけるリーダーであり続けています。

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1997

Heritage

ポール W. クリプシュは、名誉あるEngineering and Science Hall of Fameに殿堂入りしました。これは、トーマス・エジソン、ジョージ・ワシントン・カーヴァー、ライト兄弟らも名を連ねる栄誉です。
Engineering and Science Hall of Fameは、工学および科学の原理に基づく個人の貢献を通じて、人々の生活の質を向上させた人物を称えるものです。

その少し後、Klipschのマーケティングチームは、Klipschorn、La Scala、Belle Klipsch、Cornwall、Heresyを含むPWKのオリジナルスピーカー群に対して、「Heritage」という呼称を使うようになりました。この名称により、拡大を続けていたマルチチャンネル製品群と区別されるようになります。

Klipsch Heritage Seriesとは、PWKの伝説的な設計をもとに、1946年以来、高品質なオーディオを作り続けてきたアーカンソー州ホープで、誇りある職人たちの手によって組み立てられる製品であることを意味しています。

1999

ReferenceとProMedia

ミレニアムの終わりは、Klipschにとって刺激的な時代でした。象徴的なブラックとカッパーのKlipsch Reference Seriesが登場し、高い評価を受けたのです。

ホーンロード型ツイーターを備え、インパクトのあるサウンドを届けるReference Seriesは、多くのKlipschファンに価値ある高品質な音をもたらしました。同時に、その後のパワフルなReferenceおよびReference Premiereのスピーカー、サブウーハー、インストールシステムへとつながる土台を築きました。

同じ年、Klipschは、のちに史上最高のマルチメディアスピーカーシステムのひとつとなるKlipsch ProMediaを発表しました。初めてTHX®認証を取得したコンピュータースピーカーシステムとして、デスクトップサウンドに対する人々の期待を大きく変えました。

現在のKlipsch ProMediaシステムは、新たにプログラム可能なLEDライティングを備え、進学を控えた学生やメディアコンテンツを楽しむ方へのギフトとしても、今なお理想的な選択肢です。

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2001

Klipsch Engineering and Technology Center

前年に社名をKlipsch Audio Technologiesへ変更した後、同社はインディアナ州インディアナポリスに、Klipsch Engineering and Technology Centerを着工しました。これは、中西部でも有数の先進的な音響・電子技術の研究開発施設です。

試験ラボ、デジタル電子機器用ワークステーション、音響処理を施したリスニングルーム、エンジニアリング用の試作工房、インダストリアルデザインラボに加え、アーカンソー州ホープのKlipsch音響ラボにあるオリジナルの無響室を受け継ぐ、2つ目の無響室も建設されました。
ここでも、コーナー部分を含めたKlipschornの測定を可能にするため、特許取得済みの回転ドアが設置されました。

Klipschのチーフエンジニアであり、現在はKlipsch Museum of Audio Historyのキュレーターでもあるジム・ハンターは、複数のKlipschエンジニアとともにアーカンソー州からインディアナ州へ移り、新しいKlipsch施設の建設、セットアップ、運用を支援しました。
一方、エンジニアのロイ・デルガドはホープに残り、KlipschのHeritageおよびProfessional製品の開発を継続しました。

 

2002

PWK逝去

5月6日、ポール W. クリプシュはアーカンソー州ホープで、98歳の生涯を閉じました。彼は生涯を通じて、自身の言葉でいう「限られた空間の中で最大限の性能を引き出すエンジニアリング設計」に貢献し続けました。

 

妥協を許さない完璧主義者であった彼は、23件の特許を取得しました。墓石をよく見ると、左下には小さな“Bullshit”バッジが刻まれています。

 

Hi-Fiの創始者世代のひとりであるPWKに向けて、世界中から思い出と称賛の言葉が寄せられました。フレッド・クリプシュの言葉が、その人物像を最もよく表しているのかもしれません。

 

「ポールは紛れもない天才でした。どんな職業を選ぶこともできたはずですが、彼がオーディオを選んだことで、世界はずっと良い音で満たされることになりました。」

 

同じ年、Klipschは世界初のフル・ホーンロード型THX認証シネマスピーカーシステムを発表しました。これは、1946年のKlipschornから始まったPWKの画期的な研究を基盤とするものです。

 

その2年後、2004年のInternational Consumer Electronics Show(CES)において、ポール W. クリプシュは没後、Consumer Electronics Hall of Fameに殿堂入りしました。Consumer Electronics Hall of Fameは、創造力、粘り強さ、決意によって業界の形成に貢献したリーダーを称えるため、Consumer Electronics Associationによって設立されたものです。アラン・ドワー・ブルムライン、スティーブ・ウォズニアック、ウー・パイク、大賀典雄らとともに、その栄誉を受けました。

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2005

Klipsch iFi

Klipschは、2005年のConsumer Electronics Showで、受賞歴を持つiFi™を発表し、オーディオ周辺機器の分野へ参入しました。iFiは、初のiPod®用ホームステレオシステムでした。

Apple®のリテールコンセプトストアの初期展開にあたり、CEOのスティーブ・ジョブズが自ら選んだKlipsch iFiは、AppleのiPod再生機器を30ピンでドッキングでき、優れたサウンドを実現しました。

高い評価を得たKlipsch Quintet™システムの設計を発展させたiFiは、精密なReference RSX-3 MicroTractrix™ホーンロード型サテライトスピーカー2台と、パワフルな8インチ、200ワットのサブウーハーを組み合わせたシステムでした。Quintetシステムは、1998年から2015年までに5世代にわたって展開されています。

Reference RSX-3は、自立設置にも壁掛けにも対応する独自のボールジョイント式スイーベルベースを備えていました。シルバーカラーをまとったiFiには、RFリモコン、音量調整機能付きドック、各種iPodモデルに対応するドックアダプターも付属していました。

Klipsch iFiは、ジェフ・バードの2003年のアルバム『Candy Shell』に収録された楽曲「I’m in love」を使用した、デジタルおよびプリントキャンペーンとともに展開されました。

2007

ヘッドホン:コンサートを持ち歩く

Klipschは2007年、高い評価を受けたImage X10の発売により、インイヤーヘッドホン市場へ参入しました。

 

削り出しアルミニウムとアルマイト処理されたカッパーの美しい外観を備えたX10は、オーディオファイル品質のリスニング体験を提供するとともに、究極の快適性と装着性を追求したモデルでした。

2009年には、受賞歴を持つImage S4およびS4iを発表しました。S4iは、独自の3ボタンリモコン/マイクにより、iPhoneの音楽・動画コンテンツをフルコントロールできる初のサードパーティ製ヘッドセットでした。S4iは翌年、CES Innovations Awardを受賞します。

 

2010年には、Klipsch独自のインイヤーヘッドホン用オーバルイヤーチップ設計に対して特許が付与されました。このイヤーチップは、遮音性を高め、低音レスポンスを向上させるとともに、長時間装着しても快適な優れた装着感を実現しました。

 

さらに同年、Klipsch初のオンイヤーヘッドホンであるKlipsch Image ONEも発表されました。

2026年、Klipschはポール W. クリプシュの探究心に着想を得た最新のプレミアムヘッドホンシリーズ、Klipsch Atlasを発表しました。シリーズは3モデルで構成されています。

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80年以上にわたるKlipschの歩みは、
今後も随時更新予定です。

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