Klipsch の歩み
80年以上にわたり、Klipschは創業者ポール W. クリプシュをはじめ、業界でも屈指の才能と技術、情熱を持つ人々の手によって、製品の設計・開発を自社で行ってきました。
パイオニアであり、型破りな存在でもあったポール W. クリプシュが、現在もなおHi-Fiの世界に変化をもたらし続ける企業をどのように築いたのか。その歩みをご紹介します。


1904年
すべてはPWKから始まった
3月9日、インディアナ州エルクハートでオスカー・コールマン・クリプシュとミナ・パール・エディの一人息子として、オーディオ機器の伝説的人物ポール W. クリプシュ(PWK)が誕生。
1930年代
アイデアの種
ニューメキシコ州立大学を卒業後、PWKはゼネラル・エレクトリックでラジオの設計に携わりました。その後、チリのトコピジャにあるアングロ・チリ・コンソリデーテッド・ナイトレート社で、若手電気技師として働くことになります。
現地で彼は、自身のホーン型ラジオスピーカーと友人のコーン型スピーカーを比較し、ホーン方式が持つ高能率性に気づきました。
その後、大学院進学のため米国に戻ったPWKは、1933年にスタンフォード大学の同僚が語った「すべてのスピーカーは、部屋のコーナーに置くとより良い音になる」という言葉をきっかけに、スピーカー設計についてさらに深く考えるようになります。


1941年
戦争とホープ
第二次世界大戦への米国の参戦を見越して、政府はアーカンソー州ホープに弾薬試験場を開設しました。予備役将校訓練課程で訓練を受けたポール W. クリプシュ少佐は、主任技師および副指揮官としてこの地に派遣されます。
5万エーカーを超える敷地で、彼は数千人の部隊を率い、300万発以上の弾薬試験と242棟の建設を指揮しました。その建物の中には、のちにKlipschの工場やKlipsch博物館となる施設も含まれていました。
週70〜90時間にも及ぶ勤務のかたわら、PWKは伝説的なスピーカー「Klipschorn®(クリプシュホーン)」の設計を完成させる時間を見つけます。彼の士官宿舎を訪れた人々は、その生々しい音の再現性に驚き、PWKに自身の製造事業を始めるよう勧めました。
1946年
事業の始まり
ホーンスピーカーは能率が高く、歪みが少ないという考えに基づき、ポール W. クリプシュはKlipschornの初期プロトタイプを開発しました。彼はそのスピーカー設計で特許を取得し、Hi-Fi時代の幕開けを大きく後押ししました。
1946年、PWKは「クリプシュ&アソシエーツ(Klipsch & Associates)」の名で会社を設立。アーカンソー州ホープにあるトタン小屋で、高域用ホーンの製造を開始しました。
最初の20台のKlipschornスピーカーに使われた低域用キャビネットの製作には、地元の家具職人とボールドウィン・ピアノ社が協力しました。


1948年
最初のKlipsch工場と研究所
1948年、ポール W. クリプシュと最初の従業員はトタン小屋では手狭になり、アーカンソー州ホープのサウスウェスタン試験場にあった電話交換局の建物へ会社を移転しました。PWKは、戦時中に自ら建設に携わった数多くの建物のひとつを、米国政府から購入したのです。
建物の1階には音響研究所とオフィスが設けられ、地下にはスピーカーの製造設備が整えられました。地下室は天井高が10フィートあり、手回し式のエレベーターも備えていたため、スピーカーの製造に理想的な環境でした。
ここで最初に製造されたKlipschornのシリアルナンバーは「121」。PWKは、会社をより大きく見せるために、シリアルナンバーに100を加えていたのです。1948年から1952年までクリプシュ&アソシエーツ社の拠点となったこの建物は、現在、Klipsch博物館として使われています。
1956年
Klipschテープ部門
1956年末、ポール W. クリプシュは、ある若者をスタッフ・ミュージシャンとして迎え入れました。ジョン・アーグルは兵役を終えようとしていた頃で、イーストマン音楽学校で学んだ知識を活かしたいと考えていました。彼はホープから30マイルほど離れたテキサーカナで育ち、少なくとも1953年頃からポールのもとでパートタイムとして働いていました。
1957年初頭に正式に加わったことで、Klipschテープ部門が誕生します。
この事業は、録音済みステレオ音源をKlipschの販売店やHi-Fi愛好家に販売するものでした。同時に、当時数多く行われていた展示会でKlipschornの実力を示すための、優れたデモ音源を提供する目的もありました。
Klipschとアーグルは全米各地を巡り、ジャズバンドのコンサート、オルガンリサイタル、合唱、その他多くのライブイベントを録音しました。中には、卓球、パレード、蒸気機関車といった効果音も含まれていました。
これは、オーディオ機器メーカーがオーディオ愛好家に向けてダイレクト・テープ・マスターを提供した、最初期の試みのひとつでした。一般向けに提供されたステレオ録音としても、非常に初期のものにあたります。
2年間で数百本もの高音質録音を残したものの、この事業は終了します。PWKは1959年に、これを「1万ドルの損失だった」と記しています。その後アーグルは、JBLにおけるオーディオエンジニアリングと製品開発の先駆者となり、グラミー賞やアカデミー賞も受賞しました。
2011年、Klipschテープのマスター録音の一部が再発見されました。驚くべきことに、それらはアーカンソー州の管理されていない環境で、50年以上の保管期間を経ても残っていました。選ばれたトラックはデジタル化され、その音質は大部分において非常に優れたものでした。
これらのテープは、録音技術とポピュラーカルチャーの初期の姿を伝える貴重な記録です。現在も調査が進められており、今後さらに公開できる音源が見つかることが期待されています。


1957年
少しばかりの異端(Heresy)は、
魂にとっては良いものだ
ポール W. クリプシュは、1957年にHeresyを発表しました。これは実質的に、世界初の商用センターチャンネルスピーカーでした。3チャンネル・ステレオ構成における中央定位のために設計されたものです。
なお、商用ステレオLPが初めて登場したのは1958年のことでした。
このスピーカーの名前は、ある関係者が「ポール・クリプシュがコーナー型ではないスピーカーを設計するなんて、異端だ」と言ったことに由来します。
それに対しPWKは、「それを名前にしよう」と答えました。
その1年後、Klipsch Heresyはベルギー・ブリュッセルで開催された万国博覧会でデモンストレーションされます。
Heresyは、現在ではIVへとアップデートされ、今もアーカンソー州ホープでKlipschによって製造されています。世界中の音楽ファンに愛され続け、オールタイム・ベストのリストにも数多く名を連ねるモデルです。
コンパクトなサイズ、力強い出力、設置の自由度を備えたHeresyは、リビングルームから教会、ナイトクラブまで、さまざまな空間で信頼される定番モデルとなっています。
1958年
世界の舞台へ
1958年の万国博覧会は、ベルギーのブリュッセルで開催されました。当時27歳のオーディオ愛好家、ドン・デイヴィスと妻のキャロリンは、ヨーロッパを旅行していました。
その際、米国のオーディオ産業を代表する展示としては十分とはいえない機器のデモを目にした2人は、帰国後、米国国務省に働きかけ、その状況を改善するための許可を得ました。
彼らは友人のジョージ・ペトリー、ビル・ベルとともに、Scott、Marantz、Ampex、Altec、Fairchild、そしてKlipschなど、総重量1トンを超える最先端のオーディオ機器を旅客機に積み込み、ブリュッセルへ戻りました。
午後の時間帯には、アメリカ国立館を使用し、モノラルおよびステレオ音楽の再生、効果音のデモンストレーションを行うプログラムが組まれました。電子機器は講堂後方のテーブルに並べられ、来場者が見られるように展示されました。
ステージ上には、仮設コーナーに設置された2台のKlipschornが置かれ、新たに登場したKlipsch Heresy®がセンターチャンネルを担当しました。このプレミアムなシステムは来場者を魅了し、各回のデモンストレーションは満席となりました。
米国へ戻った後、ドン・デイヴィスはポール W. クリプシュに雇用され、ほどなくしてキャロリンとともにアーカンソー州ホープへ移り住みました。


1959年
西から東へ
1959年夏、冷戦のただ中にあったモスクワで、「アメリカ博覧会」が開催されました。この展示会は、米国とソ連の生活様式や技術を互いに紹介し、同時に世界中のテレビ視聴者にも届けるものでした。
会場には、米国を代表する革新者たちが関わっていました。R. バックミンスター・フラーはジオデシック・ドーム型の展示ホールを設計し、チャールズ&レイ・イームズは7面スクリーンによる同期型マルチメディア展示と、展示全体のブランディングを手がけました。また、リチャード・ニクソン副大統領とニキータ・フルシチョフがモデルキッチンで行った有名な討論も、この展示会での出来事です。
クリプシュ&アソシエーツ社のドン・デイヴィスは、米国商務省のオーディオ・コンサルタントとして参加し、Klipschの技術をデモンストレーションしました。
ジョージ・ネルソンが設計した「ジャングルジム」パビリオンでは、ハイ・フィデリティ製造業者協会(IHFM、Institute of High-Fidelity Manufacturers)がオーディオシステムを展示。その中には、KlipschornとHeresyによる3チャンネル構成のシステムも含まれており、「究極のシステム」と呼ばれました。
ジャズ録音は、好奇心旺盛な来場者によって、しばしば非常に大きな音量で再生されました。中には、音量を最大にするために構造物によじ登る来場者もいたといいます。

1959年
西から東へ
1959年夏、冷戦のただ中にあったモスクワで、「アメリカ博覧会」が開催されました。この展示会は、米国とソ連の生活様式や技術を互いに紹介し、同時に世界中のテレビ視聴者にも届けるものでした。
会場には、米国を代表する革新者たちが関わっていました。R. バックミンスター・フラーはジオデシック・ドーム型の展示ホールを設計し、チャールズ&レイ・イームズは7面スクリーンによる同期型マルチメディア展示と、展示全体のブランディングを手がけました。また、リチャード・ニクソン副大統領とニキータ・フルシチョフがモデルキッチンで行った有名な討論も、この展示会での出来事です。
クリプシュ&アソシエーツ社のドン・デイヴィスは、米国商務省のオーディオ・コンサルタントとして参加し、Klipschの技術をデモンストレーションしました。
ジョージ・ネルソンが設計した「ジャングルジム」パビリオンでは、ハイ・フィデリティ製造業者協会(IHFM、Institute of High-Fidelity Manufacturers)がオーディオシステムを展示。その中には、KlipschornとHeresyによる3チャンネル構成のシステムも含まれており、「究極のシステム」と呼ばれました。
ジャズ録音は、好奇心旺盛な来場者によって、しばしば非常に大きな音量で再生されました。中には、音量を最大にするために構造物によじ登る来場者もいたといいます。
1959年
Cornwall(コーンウォール):自然な高能率
Klipsch Cornwallは、ポール W. クリプシュが1957年に、2台のKlipschornの間に置くセンターチャンネルとしてHeresyを開発した後に生まれました。
より広い帯域を再生できるセンタースピーカーの必要性に気づいた彼は、1959年にCornwallを設計しました。Heresyと並び、商用生産された最初期のセンターチャンネルスピーカーのひとつです。
Cornwallは、PWKが実証してきたホーンロード型のツイーター/ミッドレンジシステムと、バスレフ型ウーハーキャビネットを組み合わせた3ウェイ設計を採用していました。
ニューヨーク・オーディオフェアで初披露された際には、このスピーカーの名称を決めるコンテストが行われました。そして、コーナー(corner)にも壁際(wall)にも設置できることを表す名前として、「Cornwall」と名づけられました。
初期モデルにはElectro-VoiceやJensenのコンポーネントが使われていましたが、後にKlipschのカスタムドライバーや進化したホーン設計へと置き換えられていきます。時代を重ねる中で、周波数特性の改善、歪みのさらなる低減、構造の改良が行われました。
長く受け継がれる品質を備えたKlipsch Cornwall IVは、現在もアーカンソー州ホープで職人の手により製造され、世界中の音楽ファンに愛されています。


1963年
La Scala (ラ・スカラ):
ダイナミックなディーヴァ
ポール W. クリプシュは、舞台芸術の分野に向けてKlipsch La Scalaスピーカーを設計しました。その名は、イタリア・ミラノにある世界的に有名なオペラハウス、スカラ座(Teatro alla Scala)に由来します。
La Scalaは、アーカンソー州知事候補ウィンスロップ・ロックフェラーのためのPAスピーカーとして発表されました。その比類なき能率と性能により、Hi-Fiの歴史に名を刻む存在となります。
Klipsch La Scalaは当初、クラブや教会、イベントスペースなどの内装に合わせて設置・塗装できるよう、無塗装の木材で製造されていました。
やがて、移動を伴うライブサウンド用途に向けて、保護仕上げとハンドルを備えた業務用モデルも製造されます。
現在のKlipsch La Scala AL6は、その系譜にふさわしい美しいエンクロージャーに収められたプレミアムオーディオです。今もアーカンソー州ホープの、La Scalaが最初に製造されたのと同じ工場で、職人の手により作られています。
1965年
BULLSHIT(くだらん!)
1960年代半ば、Klipschの社長ボブ・モアーズは、長年Klipschを担当していた広告代理店グッドロー・スタック社から、シカゴの広告会社へと代理店を変更しました。
その新しい代理店が初めてKlipschのオフィスを訪れたとき、ポール W. クリプシュはHi-Fi雑誌を空中に放り投げ、「くだらん!(Bullshit!)」と叫びました。
彼は、スピーカーメーカー各社が、自社の「革新技術」によって物理法則を打ち破ったかのような誤った主張をしていることに、心底うんざりしていたのです。
こうして「Bullshit」というスローガンが生まれただけでなく、「Ho Hum Another Major Breakthrough(またしても退屈な技術革新が誕生)」という広告キャンペーンも誕生しました。
PWKは、オーディオ専門店や展示会で小さな黄色いバッジを配り始めました。それは襟の下につけておき、必要なときに見せるためのものでした。
1975年には有名な“Bullshit” Tシャツが登場し、出荷ドック前での写真撮影のために、全従業員に1枚ずつ配られました。その後まもなく、アーカンソー大学の学生が、この大胆なTシャツを着ていたことで授業から退出させられる出来事が起こります。クリプシュ&アソシエーツ社は、その学生のために法的支援の費用を負担しました。
現在でも、Klipsch本社やKlipsch 博物館を訪れた人には、この“Bullshit”バッジが配られています。それは、Klipschの音響研究が真に科学的な基盤に立っていることを思い起こさせるものです。


1969年
更なる躍進
1960年代後半の社会文化の変化により、ステレオ音楽とHi-Fiへの関心は高まり、Klipschはその流れを牽引していきました。
オーディオシステムは、家庭、独身者の住まい、パーティー会場に欠かせない存在になっていきます。ポール W. クリプシュとKlipsch社長ボブ・モアーズは、PWKの飛行機で全米を巡り、米国各地に次々と登場していた新しいステレオショップを訪問し、“Bullshit”バッジを配りました。
ライフスタイル誌にはKlipsch製品のレビューや推奨記事が掲載され、英国ロックの世界的なブームやサイケデリック・ムーブメントにより、刺激的なリスニングのための膨大な録音音源が生み出されました。
この時代の流れの中で、Klipschのロゴは新しい書体と、当時を象徴する大胆な色使いへと変更されました。
1971年
舞踏会の花形(Belle)
1970年末、Klipschのキャビネット工房では、特注品の一部において、Klipsch La Scalaの実用本位の外観をより洗練させる試みが何度か行われました。しかし、キャビネット設計の都合により、外観上の変更を加えることは容易ではありませんでした。
1971年、ポール W. クリプシュはBelle Klipschを発表します。これはLa Scalaと基本的に同等の音響性能を備えながら、外観をより美しく整えた、プロポーションの異なるスピーカーでした。
その名称は、彼の最初の妻、エヴァ・ベル(ハリング)・クリプシュにちなんでいます。2人は1928年に結婚し、彼女が1976年に亡くなるまで夫婦であり続けました。
Belle Klipschは、フルホーンロード型ドライバーとフォールデッドホーン・ウーハーを備えた、スタイリッシュな3ウェイ・フロアスタンディング・スピーカーでした。極めて高い能率と低歪みで知られ、現在もオーディオファイルの間で高く評価されています。
Belle Klipschは、1990年代半ばに生産終了となりました。


1977年
プロフェッショナル・サウンド
高能率なホーンロード設計と、その応用可能性を追求し続けたクリプシュ&アソシエーツ社は、1977年に大規模会場向けラウドスピーカーの製造を開始しました。
同社のプロフェッショナル・スピーカーラインには、ツアー/ライブサウンドおよび映画館向けに設計された、500ポンド(約227kg)のMCMシリーズが加わりました。
MCMシリーズは、信頼性と優れた音質を備えた米国製スピーカーによって、業務用音響やカスタム音響設備の分野に長く貢献していくというKlipschの姿勢を確かなものにしました。
現在、力強く正確なKlipschの業務用ラウドスピーカーは、世界中の一流のイマーシブシネマのスクリーンの後ろや、ライブ会場で活躍しています。
1978年
シルバー&ゴールド
1970年代後半から1980年代初頭にかけて、ホーンロード型ラウドスピーカーと、その背後にいる個性的な天才に対する称賛と関心が相次ぎました。
ポール W. クリプシュは1978年、スピーカー設計と歪み測定への卓越した貢献により、音響工学協会(AES、Audio Engineering Society)の権威あるシルバーメダルを受賞しました。この功績は、5年後に彼が「オーディオの殿堂(Audio Hall of Fame))入りを果たすことにつながります。
Klipschのスピーカー技術はプロフェッショナル音響の分野へと広がり続け、多くのレコーディング・アーティストがスタジオでの正確な再生のためにKlipschを選びました。
中でも、ニューヨークのレコード・プラント・スタジオやナッシュビルのエナクトロン・モバイル・スタジオなどでは、数えきれないほどのゴールドディスクやプラチナディスクの制作にKlipschスピーカーが使用されました。


1980年
無響室
1970年代が終わりを迎える頃、創業者でありチーフエンジニアでもあったポール W. クリプシュは、研究、試験、科学的探究の能力をさらに高める方向へ会社を導いていきました。ドライバー設計、キャビネット構造、ネットワーク設計の領域へ、より深く踏み込んでいったのです。
PWKとエンジニアのジム・ハンターが設計した最先端の無響室が加わり、1980年、ホープに新しい研究施設が設計・建設されました。この無響室には、コーナー型スピーカーの試験用として、特許取得済みの3トンの回転ドアが備えられていました。
2001年には、インディアナポリスの「クリプシュ・エンジニアリング・アンド・テクノロジー・センター」に、2つ目の無響室が建設されました。試験用ラボと試作工房も併設され、ホープのオリジナル無響室を受け継ぐ施設となっています。
1985年
Forte(フォルテ):
忠実な音を、さらに力強く
1985年に初めて登場したKlipsch Forteは、最先端の音響エンジニアリングと、米国の手仕事によるクラフツマンシップを組み合わせた、同社で最も成功した製品のひとつとなりました。
創業者ポール W. クリプシュとチーフエンジニアのゲイリー・ギラムが牽引したForteは、コンパクトなキャビネットから深みのある低音、正確な音像、高い効率を実現するために設計されました。パッシブラジエーター、ホーンロード型ドライバー、そして入念にチューニングされたクロスオーバーネットワークといった技術が用いられています。
手の届きやすい価格帯でハイエンド性能を実現したForteは高い評価を受け、大きな需要を生みました。その結果、アーカンソー州ホープでは昼夜を問わない生産体制が敷かれました。
1980年代後半には、ロイ・デルガドやジム・ハンターを含む新世代のKlipschエンジニアたちが、Tractrixホーン技術やその他の音響的ブレークスルーによって設計をさらに磨き上げ、高く評価されたForte IIへとつながっていきます。
音楽ファンの間で長年にわたり支持され続けた後、2017年にはForte IIIが登場しました。現代のシネマ由来の技術と、オリジナルモデルならではのダイナミックなサウンドを融合させたモデルです。

